川尻善昭公式サイト

Review

『妖獣都市』《監督作品 劇場長編映画 1987年》

Reviewer : 藤田直哉

セックス、ヴァイオレンス、そして都市――『妖獣都市』という遺産

川尻善昭監督の作品を観ていると、「遺産」という単語が度々脳裏をよぎる。

 ここで遺産という言葉を使うのは、世界遺産や文化遺産などを呼ぶ際に使われるニュアンスを籠めてである。すなわち、ある時代に、ある条件で、ある特別な作家のみがなしえて、現在でも、あるいはひょっとしたら未来においてもその水準のものを再現できないかもしれない作品。「遺産」とは、そういうものに与えられてしかるべき名称である。

 ぼくらは、無意識に、ある先入観を持ちがちである。すなわち、過去より現在の方が進歩しており、過去にできたことは、現在にもできるのではないかという思い込みである。分野によってはそれは全くその通りなのだが、こと文化・芸術に関しては、そうではない。たとえば、ある時代に作ることができたガラス細工を、現代の技術をもってしても再現できないということなどは、よくあることである。だからこそ、過去に、ある卓越した水準で、比類なき質に至ったものに、ぼくたちは心より敬意を払わなければならない。そして可能ならば、学ばなければならない。

 川尻作品は、そのような「遺産」の条件を確実に満たしている。にもかかわらず、そのようなものとして尊重される機会が一般的には多くないようだ。それは、エロスとヴァイオレンスに満ちているアニメーションであり、観ただけでほとんどどんな人間をも魅了してしまうエンターテイメントであることに理由があるのかもしれない。あるいは浮世絵の頃からずっと続いていることだが、ぼくら日本人は、自国の文化を評価するのが上手ではないことが原因なのかもしれない。川尻作品が海外で高く評価され、ウォシャウスキー兄弟が研究に研究を重ねて『マトリックス』や『スピードレーサー』に応用してしまうほどの価値ある遺産なのに、そのことをはっきりと意識していない。

 それは川尻作品を語る言葉が貧弱であり、蓄積が乏しいことに由来する部分もあるのではないだろうか。川尻作品は余りにストイックで、ほとんど完璧なまでに完結しているがゆえに、余分な言葉で装飾することを野暮に感じさせてしまう性質を持っている。「言わなくてもわかる」「小賢しいことは言う必要はない」、そういう雰囲気を作品は漂わせているし、作家自身のインタビューの端々にもそのような意識が見え隠れする。

 樋口尚文が「川尻作品を、映画を遠くはなれた言語でたどりなおすのはいかにも虚しく、またそもそも語る足がかりを見出すのも難しい」(『PLUS MADHOUSE2 川尻善昭』p104)と嘆く所以である。それがゆえに、現在における多くの人々への価値の伝達・伝承に失敗してきたという側面は否めない。ぼくたち批評家は、批評的に語りやすい作品に対して饒舌になってしまう悪癖があるからだ。

 では、川尻作品はどんな作品か。画面と比べて遅く鈍い言葉で語るしかない野暮を敢えて行い、簡単に説明する。

 極端に単純化された物語。大抵は、ハードボイルドな男のヒーローと、悲劇のヒロインと、悪役。構造化された物語は、画面のシンプルな色彩設計でも表される。悪は赤、善は青、など(これは当時のフィルムの性質に由来しており、『バンパイアハンターD』以降は変わる)。戦闘の描写は鋭く、一閃、光のラインが美しい。静と動が見事に表現される。「斬る」ことや「走る」こと、もっと言うと、光の筋が流れていくことそのものに極限化したようなアニメーションの快楽が炸裂する。なんと、「走る男」では、セル画を一六枚重ねて車の光沢感を出したという。

 川尻善昭は、虫プロに入り、アニメーターとして活躍をしてきたが、『妖獣物語』が実質的な初監督作品であると言っても良い(『SF新世紀レンズマン』や「走る男」の方が早いのだが、前者はどうも本人は監督作品と思っていないようであり、後者は公開が遅くなった)。実質的に、川尻善昭監督の作風として認識されているものは、この作品で爆発的に開花し、監督として誕生したものと見做しても良いだろう(作品の中身も、ある種の力に目覚める新生の物語である)。

 劇場公開もされたが、本質的にはOVAであるこの作品が、ヴァイオレンスやエロスを全開にしているという点は、指摘しておく必要があるだろう。菊地秀行を原作に迎え、バブル時代の華やかな世界を食い破ってしまうような禍々しい魔をアニメーションの世界の中に実現させることができたのは、これがマス向けの作品というよりは、街角の片隅のビデオ店などで流通しているOVAという作品形態であったことが重要な要素である(このような作品の置かれた条件が作品内容にも影響を与えるからこそ、ある時代のある作品は、決して再現されることのない遺産としての地位を手にすることができる)。

 川尻作品のトレードマークと多くの者が言うのは、ヴァイオレンスとエロスについてである。大人でも観られるエロス描写とヴァイオレンス描写が、海外においてもジャパニメーションとして非常にどぎつい印象や鮮烈な印象を与えたということは、多くの証言から明らかである。都市や郊外の片隅のレンタルビデオ店などで偶然それに出遭うのは衝撃でもあっただろう。流通そのものに何か秘密の取引めいた闇の匂いがしただろうし、ビデオテープの中にある魔の世界をビデオデッキで再生する行為自体が、均質で清潔で軽薄な消費社会を謳歌していた当時の日本のバブル都市を浸食してしまうことであるかのように感じられたのではないかと推測してしまう(そのような時代の感性やメディアの条件もまた、再現できない)。

 だが、おそらく、そのふたつだけでは川尻作品は語りきれない。問題は、『妖獣都市』の、「都市」の部分である。妖(エロス)と獣(ヴァイオレンス)だけではなく、都市もまた川尻作品においては重要なのだ。

 『妖獣都市』の東京、『魔界都市〈新宿〉』の地震で壊滅して魔が蔓延る新宿(ぼくは今観ても、この新宿描写にはゾクゾクする)、『MIDNIGHT EYE ゴクウ』のネオ東京、『CIBER CITY OEDO 808』のOEDO、『ハイランダー』の荒廃したニューヨークなどなど。ほとんどすべての作品で「都市」が丹念かつ魅力的に描かれている。

 このような「都市」が、エロスやヴァイオレンスと効果的に結びついたときに、川尻のマジックが炸裂する。『妖獣都市』においては、当時の東京という都市そのものを、魔界に変えてしまいたいという欲望を強く感じる。

 八〇年代のサブカルチャーは、東京の破壊への欲望に憑りつかれていた時代だった。『ゴジラ』は一九八四年に新宿を破壊し、大友克洋『AKIRA』(映画版)は一九八八年にネオ東京をぶっ壊し、塚本晋也は一九八九年に『鉄男』で都市と一体化しながら破壊しようとする衝動を描いた。それらの衝動は、塩田時敏が言うように「華やかなバブルの裏にひそむ、ひそんでいるに違いない云い知れぬ不安の闇」(『PLUS MADHOUSE2 川尻善昭』p111)があったからかもしれない。明るく軽薄な社会に適合できない者たちの怨念が終結したのかもしれない。なにしろ、ネアカやネクラという言葉が流行し、オタクは現在では考えられないほど差別されていた時代である。

 『妖獣都市』もこのような都市とサブカルチャーのテーマ系に属する作品であることは間違いがないが、都市を破壊しようという衝動とは異なっている。『妖獣都市』はより悦楽の側面が強い。明るい都市の中にひっそりと流通する「ネクラ」な趣味であるアニメのビデオを密やかに観るという行為は、新宿の高層ビルに象徴されるような清潔な成長を破壊しようという衝動を持ってはいるものの、アニメそのものが資本主義の産物であり、快楽を肯定するものであるから、それを可能にしている都市を全面的に破壊し、否定するということにはならない。むしろ、スリリングでエロチックな「魔」の世界に変えてしまうことを望むのだ。

 それはある意味で、この時代特有の文明批判であった。成長を続ける都市そのものの足元への不安(魔は、地下から来ることが多い)、エロチックな悦楽の肯定、死や戦いというスリルへの希求――当時の社会が忘れかけようとしていたものを、アニメーションという形で呼び起こす。川尻作品とは、そのような作品なのだ(アニメはゼロ年代には、現実そのものの虚構性を肯定していく方向性に向かっていくのだが、川尻作品はそうではない)。

 だから、身体的で、直接的で、誰でも、いつ見ても、大体面白い。「普通に面白い」と思ってしまう。時代を超えて、土地も超えて、面白いのだ。だが、「普通に面白い」と思わせることを実現させるために、脚本や演出のレベルでどれほどの配慮がなされていることか。物語を「構造」にまで切り詰める努力を徹底した結果がこれらの作品である。作品自体が、刀の一筋のようなのである。

 そのような効果を生むためにどれだけの技法が用いられているのか――真に分析しなければいけないのはその辺りなのであるが、既に紙幅が尽きたので、稿を改める。

 繰り返すが、ある条件と個人の才能が生み出した「遺産」は、死蔵していては意味がない。鑑賞し、研究し、生かし直すことこそが、過去や伝統を保存するべき後世の人間の使命である。……その点では、弟子の小池健も非常に優れた作家であり(川尻が原画を担当した『REDLINE』は本当に素晴らしかった)、日本にも多くの後継者がいることは間違いがないが、最も特筆すべき応用の成功者がウォシャウスキー姉弟であるということは、歯痒いところがある。『マトリックス』でのアクションや、『スピードレーサー』の見事なCGの使い方(編集などで巧みに省略などを行う)を観れば、遺産相続は既に密やかに行われてしまったのだと言わざるを得ないのかもしれない。

 それはそれで喜ぶべきことなのかもしれないが、自分の国の良いものを、自分の国で評価できなければ、それはそれで問題があるのではないだろうか。日本の固有性とグローバル性を直結させてしまうような稀有な作家である。その稀有さを明らかにするために、真剣に作品に向き合い、分析し、研究し、実践する者たちがもっと現れても良い。その価値は、間違いなくある。