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Review

『獣兵衛忍風帖』《監督作品 劇場長編映画 1993年》

Reviewer : TYPE-MOON 奈須きのこ


 今を遡ること20年前。
 私は十代の終わりに、一つの到達点を見た。

 忍法帖シリーズ、というものがある。
 それは作家・山田風太郎氏の作りあげた素晴らしい伝奇活劇の世界で、多くのフォロワーを生みながら現在まで生き続けた。
 忍法帖と言うからには主役、主題は忍者になる。そこに描かれる忍者たちは例外なく恐ろしく魅力的だ。超人的な身体能力を持つのは当然として、彼等はひとりひとりが独自の“忍法”を修得していた。
 忍者たちの里に伝わる秘伝、習慣、儀式。それらを極限まで練り上げ、人格を崩壊寸前まで追い込み、時には肉体さえ変貌させながら身につけた絶技の中の絶技―――即ち、魔技と呼ばれるものを。
 忍者たちは各々の魔技を隠しながら戦い、無惨に敵を斃し、無惨にその命を散らしていく。どれほどの奇跡を体現しようと、彼らはしょせん草の一本。命は使い捨ての道具に過ぎず、その人生が酬われる事はない。物語の構造としてはシンプルながらも、やるべき事、見せたいものがはっきりとした骨太な娯楽体系だと思う。
 そして奇想天外な発想から始まったこのジャンルは時代を超えて生き続けている。そう、今に言う『能力バトル』だ。“一芸必殺”を持つ超人たちの命のやりとりは、既に偉大な先人が通り過ぎた道だった。多分に漏れず、自分もそのフォロワーのひとりだと自覚している。(このジャンルをさらに発展させた人物として作家・菊池秀行氏がいるが、氏の作品と川尻監督の関係性は語るまでもないので割愛)

 山風の忍法帖シリーズは多くの読者の心に衝撃を残した。
 それは川尻監督においても例外ではないと思う。その衝撃を受け、自らの作品に叩きつけたものがこの『獣兵衛忍風帖』なのだと私は信じてやまない。
『獣兵衛忍風帖』は、忍法帖もののエッセンスを余すことなく拾い上げ、静の小説から動の映像へ、さらに極上のエンタメ時代劇へと昇華したものだ。
 学生だった自分には、ただあの世界に思いを馳せる事しかできなかった。現実の物にする野望も技術も持たなかった。
 だが、見よ。
 ひとりの男があの世界に真っ向から立ち向かった。
 匂い立つ色気。陰影の美術。妖刀の如き演出の切れ味。超絶の名に相応しい動画。その静と動の自由自在。
 小説家・山田風太郎の魔技を、映像監督・川尻善昭の魔技が受け止め、これを継承した瞬間だった。
 かくして、『獣兵衛忍風帖』は数多くいた忍法帖ファンの心を鷲づかみにした。
 小説にしかできない伝奇の凄みがあるとしたら、
 映像にしかできない伝奇の凄み、外連味がある。
『獣兵衛忍風帖』は忍法帖ものの系譜ではあるが、同時に、我々物書きでは到達できなかった新しい“伝奇活劇”である事を証明した。

『獣兵衛忍風帖』の基本構造はシンプルだ。
 ある陰謀に巻きこまれた小藩を舞台に、風来坊の主人公・牙神獣兵衛が生き抜く()()の話である。
 火花散る高速の貫付(ぬきつ)け。剣線を一筋の真空として放つ獣兵衛の剣技は、なるほど、世に並ぶもののない一芸と言える。
 だが敵は鬼門八人衆。いずれ劣らぬ人外の魔人たち。
 鉄僧、妖蛇、魔影、爆花、電糸、虫飼、剣鬼、そして不死。
 瞬きをすればその隙に命を失うほどの強敵たちは、容赦なく果断なく、一撃必殺を信条に襲い来る。
 この緊張感。五分ごとに繰り広げられる窮地と、逆転の快感。
 獣兵衛も強いが敵も強い。『べらぼうに強い主人公』が『同格に強い敵』たちと連戦を繰り広げる様は、ただただ見惚れるばかりだ。
 超絶アクションと奇想天外のギミックをこれでもかと盛り込みながらも、物語は最終局面になだれ込む。
 燃え盛る建物。野望の果て。黄金の海での決着。
 最後の死闘を飾るのは、これまでスタイリッシュだった殺陣から一転しての肉弾戦。絡まりに絡まった因縁の清算を果たすに相応しい、骨肉と血肉の鎬合い―――息つく間もない93分とはまさにこの事だろう。
 そして、この“濃縮された死の道行き”は決して苦しいものではない。視聴している者は川尻善昭の外連味に酔い、演出のあまりの切れ味の良さに切られた事さえ気付かない。
 死に向かう緊張を、生に向かう興奮でかき消していく。
 私がこの作品を極上のエンタメだと断言するのは、このバランスがあまりにも理想的だったからだ。

『獣兵衛忍風帖』が公開された時のことは今でもよく覚えている。
『妖獣都市』『魔界都市新宿』の監督である川尻善昭がオリジナルを作っているらしい、という第一報に期待を馳せ、アニメ雑誌Newtypeで公開された鬼門八人衆のヴィジュアルに一目で魅了され、人生で初めて上京し、数少ないオタク仲間である後の相棒と共に池袋に向かった、十代最後の年のことを。
 あれは小さな映画館だった。五人も乗れるかというエレベーターに乗って、薄暗い劇場に迷い出た。劇場の壁一面には日本上陸間近の、スプラッタ映画を終わらせたスプラッタ映画として名高い『ブレインデッド』のリアルな油絵が飾られており、現実感はさらに消失していった。期待に満ち満ちた頭蓋を抱え、フィルムが回り出した瞬間から心を奪われた若い自分の姿は、いま振り返ると愛おしいと思える程だ。

 私はそこで、自分が目指したいものの一つの到達点を見た。

 忘れようのない、その後の人生を左右したほどの衝撃だった。
“活劇というジャンルにおいて、文章は映像作品には敵わない。”
 そんな当たり前の事を思い知らされた自分は、“活劇小説は映像作品の三倍、面白いプロットでなければ意味がない”なんて信条すら持ってしまった。
 それは20年たった今でも覆るものではなく、ひとりの物書きの胸に、いつまでも強い衝撃として在り続けている。
『獣兵衛忍風帖』は自分にとって目標であり、励みであり、最高のご褒美だった。
 こうして再び劇場公開の機会に恵まれた事を一ファンとして、そして一伝奇作家として嬉しく思う。
 だって、これはどうしても必要な事だ。
 この胸の滾りを、次の創作者に受け継いで貰うために。

 ところで。もし貴方が既に獣兵衛忍風帖を観ているものの、劇場ではこれが初めてだ、というのなら、ちょっとしたお願いがある。
 アクション目当てもいいのだけど、二度目であるならその他のところにも感情移入してほしい。
 はじめは誰もがその殺陣の凄み、爽快感にばかり目がいくが、話の筋を知った後の二回目は主役級の人物たちの演技、感情の細やかさに注目してほしい。
 正義漢ながらもお人好しではない、根無し草のクセに現実主義者の獣兵衛。
 隠密として育てられ、自分の役割、望月藩のために道具であり続けようとする陽炎。
 この二人の関係性はより深くキャラクターたちの内面に踏み込まないと見えてこない。
 たとえば冒頭のワンシーン。甲賀組の会合に陽炎が単身乗り込んでくるのは何故なのか。
 それは子供の頃から隠密として育てられた同僚たちからも「仲間」と認められなかった彼女の在り方と、その孤独に憤る内面を描くためだ。
 道具として生きるのはいい。女性として見られなくてもいい。
 ただせめて、同じ目的のために生き、死ぬ、仲間として在りたかった―――そんな陽炎の内面を考察していくと、物語後半、廃寺での獣兵衛との会話が陽炎にとってどれほどの救いだったのかも感じ取れる。
 たった一日で恋に落ちた、ではない。
 たった一日でありながら、恋を知るほどの出会いだったのだと。

『獣兵衛忍風帖』は魔技と魔技が激突する忍者アクションの最高峰ではあるが、男と女の話でもある。
 活劇と心の機微。それを両立させているからこそ、この作品はこうして今も語り継がれている。それは過去から当たり前のように受け継がれる、娯楽作品の王道に他ならない。

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