川尻善昭公式サイト

Review

『ゴクウ』《監督作品 OVA 1989年》

Reviewer : 藤田直哉

まるで”いま”みたいな、和製サイバーパンク――『MIDNIGHT EYE ゴクウ』論

 人間なんて 勝手なもんだ 二度も大地震に 会いながら……
 こりもせず また ビルの林を 植えやがった
                                (原作より)

 川尻善昭監督が一九八九年に発表した『MIDNIGHT EYE ゴクウ』は、和製サイバーパンクの隠れた良作である。『コブラ』で有名な寺沢武一が一九八七年から連載した同名マンガを原作としている。川尻監督のアニメ版も、原作のマンガ版も設定や物語が十全に展開しきれないまま途切れてしまっているのは残念だが、その後の現在まで続くサイバーパンクのテーマの種がたくさん埋まっている。演出も冴えきっており、もっと参照されて良い作品のように感じる。
 作品世界は、二〇一四年の、「大震災後の東京シティ」を舞台にしている。しかも、「二度も大地震に会」っている。原作の連載開始である一九八七年は、無論、阪神淡路大震災も、東日本大震災も起こる前である。
 単なる偶然である、というのが一番妥当な答えであろう。とはいうものの、東日本大震災を経験した人間の多くが、その最中にSF作品を思い起こしたり、その後になると日本SFの中に自身の経験を見出しやすくなるという現象は確かに存在している。何故なのか。
 ひとつには、日本SFや、それの影響を受けながら生まれたマンガやアニメというサブカルチャーは、日本という国土の中で暮らすということに特有の様々な問題についての「心理的」な解決を提供するという無意識的な機能があるがゆえである。平たく言えば、この国に生きる上で「普遍的」な経験をその土壌にしているから、「現在」のことが日本のSFやサブカルチャーの中に書いてあるように錯覚するのだ、という説である。
 容易く災害で人命が奪われやすい国土の中で暮らし続けてきた人々が、その集団的な心理の底で、「無常観」のような死生観を持ってしまうということは、想像に難くない。
 「二度も大地震に会いながら」も「こりもせずまたビルの林を植えやが」るような「勝手」さこそが、ある意味で、天災にいくら襲われても再び「復興」しようとする日本人の生命力を表現している。
 主人公であるゴクウは、ニヒルだが、情に厚い。そして、女が好きである。それは寺沢的なハードボイルドの表現でもあるのだが、同時に、壊れては作りだされる「勝手な町」に生きるために必要となるメンタリティである。「ハードボイルドな無常観」とも言うべきものを持って生きるしかないのだが、女や友人への情も捨てきれない。この「ゴクウ」という存在は、「勝手な」世界を生き抜こうとする場合に必要な精神性を表現している。
 「震災後」という設定を用いたのは、都市を自由自在に「描きたいから」という動機もあるだろう。
 ギブスンの『ニューロマンサー』やリドリー・スコットの『ブレードランナー』が決定づけたように、サイバーパンクの魅力に都市の描写がある。ギブスンは「千葉シティ」から作品を初め、リドリー・スコットは都市の中に「強力わかもと」の看板を出したり「うどん屋さん」で主人公が食事をする場面を入れているが、アジア、特に日本の都市イメージが、サイバーパンクの想像力の中には濃厚に入り込んでいる。
 『ゴクウ』は、アメコミ的な絵柄が得意な寺沢が、日本的な意匠や、アジア的な意匠を偽・悪趣味的なまでに盛り込んで作りだした、意趣返し的な和製サイバーパンクである。東京工科大学のある建物は、巨大な武者の兜がポールの上に立っているようなどぎつい造型のビルである。敵も、チェーンソーを持って襲ってくる武者だとか、意識的な和洋折衷具合が絶妙の味わいを生んでいて、非常に楽しい。
 余談。震災後に、想像力を好き勝手に羽搏かせて、面白い建築を作ってみようというのは、東京オリンピックを控えた現在の東京を思い起こさせる。「変な建物」を作ろうとしている筆頭であるザハ・ハディドは、「アンビルドの女王」と呼ばれていて、コンペで入選した作品が技術的に建てることができないことが多かった。
 実際の建築を目指した場合と、目指してない場合の両方に「アンビルド」という言葉は使われるが、マンガ・アニメ・ゲームのクリエイターは、ユニークな「アンビルドの建築家」として再解釈される余地を持っているのではないか。


 閑話休題。
 さて、主人公であるゴクウが持っているのが、「神の目」である。何者かが、ゴクウの片目を、今で言うインターネットのようなものを通じて通信衛星や核ミサイルなどにまでハッキングすることが可能な装置に変えたという設定が本作の肝である。現在の言葉でいうならば、コンタクトレンズ型の拡張現実デバイスに片目が変わったということである。それを映像で本作は視覚的に表現する。
 具体的に、その描写を見ていこう。『ゴクウⅠ』で「神の目」を得るときの描写である。
 水の中に沈んでいるゴクウの目にクローズアップする。その奥に入ると、闇の中に、サイケな色の電子回路が飛び交っている。それはまるで、上空から見た都市の夜景のようである。そして、コンピュータの画面を模した、緑色の数字とアルファベットが上から下に流れていく。その後に回路図が出てきて、続けて車や人工衛星の疑似ワイヤーフレーム映像が出る。人工衛星はやがて世界地図となり、ナレーションでは、ゴクウの得た「神の目」は、その気になれば核ミサイルをもハッキングして世界を終わらせることができることを説明している。世界地図からカメラが引いていくと地球になり、その地球が、ゴクウの瞳になる。
 ゴクウの持っている「神の目」の性質を一瞬で理解させる、傑出した演出である。これらの描写の半分以上は原作にないものであり、特に、回路と都市を重ねるアイデアや、上空からの視線を強調する部分は、アニメ版特有の表現であると考えられる。
 アニメ版のⅠは、原作の一話目を、Ⅱは原作の二話目を基本的に踏襲しているが、異なる設定も加えられている。たとえばⅡでは、敵が「オゾン」を出すという設定が新しく付け加えられている。この設定により可能になったのは、ゴクウの目が人工衛星に繋がり、そこから世界を見下ろし、都市にクローズアップして、オゾンを探知するという描写である。このとき、画面はゴクウの眼であり、観客は「神の目」の目線を共有することになる。
 一九八七年に公開された映画『プレデター』において、プレデターがサーモグラフィで見ている視覚が映像化されたが、『ゴクウ』においては、赤外線やオゾン、温度の差などなどがその眼で見られるようになっている。相手が隠し持っている武器を見破ったり、仕込まれた毒を成分分析で見抜いたり、特殊な兵器を使ってくる相手に対して瞬時に分析して対抗策を講じるという「神の目」を生かしたアクションは、スピーディかつ複雑に位相(視点)が変わり、「切断」の作家としての川尻の才能が存分に生きている。
 ただ、本作が残念なのは、二話までしか続かなかったことである。たとえば、このクオリティで、原作の第四話である長いエピソード(タイトルは「ゆう子」だが、それではわかりにくいので、便宜的に「九鬼一族編」と呼ぶ)がたとえば映画化されていたらどうだっただろうか。「神の目」を持つゴクウと、このエピソードの敵役の九鬼は、好対照である。九鬼工業は、人工知能の中に眠らせている「霊」を、視線の届く場所に送ることができる。カメラのついた鳥のような兵器を放ち、その視線の及ぶ場所の敵を殺すことができる。そして、九鬼工業は全世界を監視できる人工衛星を打ち上げ、自由自在に人々を殺すことが可能な力で世界征服を狙っている。これは、現在の監視社会テーマの作品と極めて似た内容である。たとえば、ルッソ兄弟監督『キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー』の中心にある、全世界を監視して敵対者を排除するシステムを駆動させるというストーリーとよく似ている。
 それに、なぜゴクウの「神の目」はそのような「悪」に傾かないのか。原理的には、ほとんど同じことができるはずなのに。「監視」の善用と悪用というテーマが、ここには潜在的に眠っていた。監視が善か悪か、それは例えば『PSYCO-PASS』などで現在最も熱いテーマの一つになっている。
 このテーマについて、勝手に想像してみよう。何故、ゴクウは「神の目」に選ばれたのか。この「神の目」とは、自身をも、都市をも、そこで生きる人間をも、透徹した眼で見通そうとするゴクウの、そして作者のニヒルさをも示している。九鬼ではダメで、ゴクウでは何故良いのか。それは、ある意味で清濁を併せ呑みながら、「無常」的な目線で、ビルの乱立や性や音楽などに象徴される、人間の生命力を肯定するような視線こそが、重要であるとの、本書に通底している思想故であるのかもしれない。
 同時に、ゴクウにはもう片方の、人間の目がある。友人の死や、女性の苦境に心を動かされる人間的な「甘さ」があるという点も重要だろう。
 これら、日本的な思想や、アジア的な意匠をふんだんに塗しながら、ハッキングや監視社会などのテーマを扱っていたという点が、『ゴクウ』の和製サイバーパンクとしての先駆性である。


 とはいうものの、本作を観ていて、ぼくが一番関心を持ったのは、夜に車を運転しているときに、街灯が車体に当たり、窓の縁が光るという、ふとした瞬間の描写だった。光が一閃する。その背景には、夜の街に灯る電気の光が、様々な色で煌めいている。まるでその光は、都市の中で生きる多様な人間を象徴しているかのようである。
 ゴクウが如意棒を使って、都市の夜景の中に飛び込んでいく描写がある。それは、『攻殻機動隊』における、草薙素子が夜景に飛び込んでいくというキービジュアルに匹敵するシーンである。それは、「神の目」を持ちながらも人の世界の中で生きて行こうとするゴクウの姿勢を、そして本作の意図をよく示している。
 多くの論者が川尻作品に指摘する「剣戟」や「ビーム」などの鮮やかな光の一閃の暴力の魅力と対比され、注目されるべきは、上空から見られた都市の穏やかで多様な色彩に彩られた優しさや、日用品である車やグラスがふとした瞬間の輝きではないだろうか。その単なる物語の必然性からは説明できない「不用」とも言えるこだわりの中にこそ、川尻の作家性や思想が眠っているのではないかと、ぼくは思う。